関ヶ原の戦いで東軍として参戦した田中吉政は、近江国浅井郡三川村または宮部村付近に住む百姓だったといわれており、現在の滋賀県長浜市三川町または宮部町が出生地と考えられています。この記事ではそんな田中吉政のエピソードをいくつかまとめてみました。
今の観光名所を作った
田中吉政は天正十年(1582)頃くらいに、秀吉の甥の羽柴秀次(のちの関白豊臣秀次)の宿老となります。天正十三年(1585)に秀次が近江八幡四十三万石を与えられると、吉政のほかに中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末らも秀次付きの家老になりましたが、吉政はその筆頭格でもありました。
この時整備したのが、現在の観光名所として名高い近江八幡城の外堀で運河の約割も担った八幡堀です。
街道を曲げまくった
豊臣秀次切腹後、吉政は岡崎城主になります。この時に城下町を大きく整備し、南の川の対岸にあった街道を岡崎城の北側を取り込む様に通しました。これが江戸時代に東海道二十七曲がりと呼ばれます。
なぜこれだけ街道を曲げまくった理由は、敵に攻め込まれた時に側面攻撃ができるように軍事的なものといわれています。ちなみにこの岡崎二十七曲がりは現在でもほぼ残っており、歩くことができます。
石像も岡崎市にある
田中吉政の石像は岡崎市御旗公園(みはたこうえん)にあります。ここは岡崎城の北の堀があった場所。つまりここまで岡崎城だったということです。
おあむ物語にも登場!
関ヶ原の戦いでは石田三成隊を攻めた吉政。しかし戦後は吉政の娘婿といわれている明石全登と一族、また徳川家康と縁があった大垣城の山田去暦(やまだきょれき)の逃亡を手助けしました。この山田去暦の娘がおあむで、後に子どもたちに語ったおあむ物語では、吉政が大垣城を攻めた時『たなかひょうぶどの』と城内で叫ぶ様子が描かれています。
ニラがゆの逸話
石田三成を生きたまま捕縛するという大功を上げたのも吉政です。正確にいえば実際に三成を捕らえたのは田中伝左衛門、そして沢田少右衛門ですが、護送に当たった時、有名な話が残っています。
捕らえられた時、三成は腹痛で病んでおり、医師は薬を勧めましたが三成は拒否します。そこで吉政は一考し、腹痛に良いという理由でニラ粥を勧め、三成はそれを食したそうです。また三成は捕縛される時に『他の者に捕らえられるより、貴殿に捕らえられたほうがいい』と吉政に言い、自分を捕らえた功績をかつての知人である吉政に与えようと思っていたとか。
三成はこの時の礼に太閤秀吉から給わった「寸延短刀」(すんのびたんとう)の脇差しを吉政に授けたました。これが後に石田貞宗と呼ばれ、現在では東京国立博物に館蔵されています。
戦後にこれらの勲功が家康に認められて、筑後一国と柳川城三十二万石を与えられ、国持ち大名となりました。