関ヶ原合戦で東軍として戦った細川忠興の陣址レビューと逸話について。
山内一豊といえば妻の千代を思い出すように細川忠興といえば、妻である玉(ガラシャ)のほうが有名かもしれません。
玉は明智光秀の娘で、信長の妹・お市の方と並んで戦国一の美女ともいわれた女性。
光秀謀反の際には実家に返されずに幽閉され、その時にキリシタンに興味をもったのか、その後侍女達と共にキリシタンとなります。
関ヶ原合戦の直前に大坂城の細川屋敷で亡くなっており、その報せを聞いた忠興はどんな思いで西軍と対峙していたのでしょうか?
忠興の陣跡へ行ってみる
忠興の陣址は2013年3月に整備されました。
場所は関ケ原町のふれあいセンター北西にある、【JAにしみの】の裏の公園。JAにしみのを目印に散策してみると分かりやすいです。
大きな池がある公園の片隅に細川家の家紋・九曜紋(くようもん)が立ち、石碑と案内看板もあります。
こちらが石碑と案内看板。
石碑に描かれているのは、忠興の越中頭成兜(えっちゅうずなりかぶと)でしょうか?
忠興は甲冑武具の研究家でもあり、実戦用の兜を考案したともいわれています。それが越中頭成兜です。
ちなみに忠興の官位が越中守だったことからこの名前がついたとか。
余談ですが、 褌(フンドシ)の種類のひとつである越中褌(えっちゅうふんどし)も、越中守だった忠興が考案したという説があります。
陣址周辺はやはり公園&住宅地。陣址の遺構らしきものは残っていませんが、こうやってかつての陣址が整備されたのは嬉しいですね。
子孫が総理大臣
さて有名な話ですが、忠興の子孫のひとりに豊後熊本藩主だった肥後細川家の第18代当主で元内閣総理大臣の細川護熙氏がいます。
まさか子孫が日本の総理大臣になり、国を動かす人物になるとは、この頃の忠興には想像もつかなかったでしょうね。
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