関ヶ原古戦場に残る奥平貞治の墓と、現在に残るエピソ-ドを紹介しますね。
奥平貞治は奥三河地方(愛知県新城市周辺)の豪族で、天正三年(1575)に起こった長篠・設楽原合戦の際には、長篠城に篭城して一族と共に武田軍を退けた武将でもあります。
本能寺の変後の天正十四年(1586)に徳川家康と豊臣秀吉が対面した時に家康の御供をしていた貞治は、秀吉から直臣となるようにいわれ、5千石で秀吉の黄母衣衆となりました。
関ヶ原合戦の際には最初、結城秀康に付けられていましたが、三成挙兵の報せが届くと家康とともに関ヶ原へ向かいます。
関ヶ原での貞治の御役目は、なんと小早川秀秋の目付け(監視役)というものでした。
秀秋は黒田長政を通じて東軍に寝返る手筈をとっていましたが、ホントに寝返るかどうか信用できなかったので、念の為に貞治を松尾山に行かせていたのです。
これは重要任務であり、家康の信頼が無ければ務まらなかった御役目なので、貞治が家康にかなりの信頼を受けていたという事が分かります。
実際に小早川秀秋は戦い半ばまで、貞治がいるのにも関わらず、動こうとしませんでした。
伝承では、この時に家康本隊から松尾山に鉄砲が撃ち込まれ、秀秋は慌てて松尾山を下り、大谷隊と戦ったそうですが、この鉄砲説は距離が離れ過ぎている為に無かった、もしくは大筒だったなどという説があります。
さて、松尾山を降りた小早川隊1万5千は、大谷隊を攻撃しますが、大谷隊では小早川隊の東軍寝返りは予てから予測しており、直属の兵6百で迎撃、更に前線で戦っていた戸田勝成や平塚為広らと共に迎え撃ち、小早川隊は2度、3度と500mほど押し戻されます。
そんな中、小早川隊を鼓舞し続けたのが貞治であり、前線に立って戦います。
しかしこの時、貞治は大谷隊からの攻撃がもとで亡くなっています。
そんな貞治の墓が関ヶ原にあります。
陣址ばかり紹介しているので、ココも陣址と思う人がいるかもしれませんが、陣址ではなくお墓です。
関ヶ原の戦い後、家康は貞治の活躍を高く評価しましたが、すでに貞治は亡くなっており、また貞治には子がいなかったため、貞治の生母へ毎年供養料として3百石を与えて、貞治に報いたそうです。
墓は一族である奥平貞昭(さだあき)が元治元年(1864)に建てたもので、石碑は保存会によって建てられました。
もし生き延びていれば、大名格になり江戸時代も幕府を支え続けた存在だったかもしれませんよね。
[ip5_box size=”box–large” title=”ほかの東軍陣址はもうチェックしました?” title_size=”” width=””]
[/ip5_box]