関ヶ原合戦の開戦のキッカケを作った一番槍は、井伊直政と松平忠吉でした。
その陣址が後に戦死者を弔った東首塚になりました。
関ヶ原には戦死者を葬った首塚が2つありますが、そのひとつがこの東首塚です。
西首塚より現在の規模は大きく、またJR関ヶ原駅のすぐ近くということで、駅から歩いて資料館に向かう途中にあります。
また入口も北側と西側の二ヶ所がありますが、西側のほうが表といった感じがします。
この東首塚を築いたのも、この地の領主であった竹中重門で、後の文部省の史跡指定時に標柱や石柵が建てられました。
そして昭和十七年には、徳風会という団体によって、名古屋から山王権現社本殿と唐門が塚の脇に移築されて、東西両軍の供養堂となったそうです。
東首塚の目の前には駐車できる場所もありました。これは車で史跡巡りしている人にはウレシイですね。
ただ駅から向かった北側ではなく、西側にあるので、北側から見ると駐車できる場所が無いように思えてしまいますので、西側をチェックしてみましょう。
首実検の後、名を馳せた武将などは個別に墓を作ってもらったみたいですが、一般の兵士たちはまとめて葬られました。
当時は戦いの後は、敵味方関係なく供養を行うのがならわしだった様で、ここにも東軍、西軍関係なしに亡くなった方を葬っているそうな。
また西首塚の記事でも書きましたが、実際の規模はもっと大きかったと思われ、現在、大木が建っている場所のみに亡くなった方が埋葬されているのではなく、もっと広範囲に埋葬されているのではないかと思います。
有名武将のエピソードだけではなく、その陰で亡くなった人達の事も忘れてはイケマセンね。
また忘れすにチェックしたいのが、井伊直政と松平忠吉の陣址です。これは東首塚と同じ場所にあります。
詳細を言いますと、駐車できる場所がある西側ではなく、北側から入ると首塚より前にこの陣址の石碑があります。
なのでJR関ヶ原駅から歩いて来ると、陣址を通り越して首塚に向かうカタチにになります。東首塚&井伊直政・松平忠吉の陣址もまとめて巡る事ができるのでお忘れなく!
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