関ヶ原合戦で東軍の先方として戦った、清洲城主・福島正則の陣址レビューと意外な逸話について。
福島正則は桶狭間合戦の翌年の永禄四年(1561年)、桶屋の福島正信の長男として、尾張国海東郡(現在の愛知県あま市:旧美和町)で生まれたといわれます。
豊臣秀吉の親戚ということもあり、その縁で子供の頃より加藤清正と共に秀吉の小姓として仕え、天正六年(1578)の播磨国三木城攻めで初陣を果たします。
その後、秀吉と共に各地を転戦。
天正十一年(1582)に起こった秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いでは賤ヶ岳七本鎗の筆頭に数えられて、戦後6千石(ちなみにほかの6人はひとり3千石)の知行地を与えられる等、武勇抜群で戦乱の世では活躍し放題でした。
文禄・慶長の役の後、石田三成ら五奉行との仲の悪さが表面化し、関ヶ原の戦いも家康のためではなく、三成が嫌いという理由で、黒田長政や細川忠興らと共に東軍に付いたようなものです。
関ヶ原の戦いでは、一応、先鋒という打ち合せになっていましたが、井伊直政、松平忠吉の抜けがけにより、一番オイシイところを持って行かれます。
これにより怒り狂った正則は、宇喜多秀家隊と激しい戦闘を繰り広げることになりました。
そんな正則の陣址は、現在周辺が住宅地になっていますが、案内看板が建つなどわかりやすいです。
正則の陣址にはなんと駐車場が完備されています。5台ほどのスペースですが、クルマ派には嬉しいですね。
そして陣址。
現在は春日神社になっており、正則の陣址を示す石碑と案内看板が立っています。
看板の後ろに大きな杉の木が建っていますが、これは月見宮大杉(つきみのみや おおすぎ)といって、関ヶ原合戦図屏風にも描かれている推定樹齢800年の木です。
ちなみに関ケ原町の天然記念物でもあります。
この杉の木は合戦の様子を一部始終見ていたのでしょうね。よく焼けなかったのが不思議です。
妻には弱かった
さて、関ヶ原合戦後にそれなりの戦いぶりだった正則は、安芸広島と備後鞆で約50万石の大封を得て広島藩を設立するようになります。
その後は結構、善政を敷いたりで、安芸ではそこそこ人気があった様で人情味あふれる話も結構残っていたりします。
例えば清洲城を去る時、世話になった老婆を次の領主に託して行った話。
そして敵に一度も背中を見せたことがありませんでしたが、妻である正室の昌泉院と喧嘩になって一目散に逃げている話など、正則らしくない話も伝わっていますが、これも彼の性格だったのでしょう。
そして情にもろい話も残っています。
宇喜多秀家とのエピソード
関ヶ原合戦後、西軍の副将格だった宇喜多秀家は、薩摩に逃れていましたが捕らえられて八丈島に流されてしまいます。
当時、八丈島ではあまり米が採れず生活もかなり不便だったそうです。
そんなある日の事。
福島家の船が嵐を避けて八丈島に避難しますが、その船には荷物がが沢山積んであり、これを知った秀家は、たくさんあるのだからということで、何かひとつ頂けないかと船長に頼み込みます。
船長は主君の正則に無断で荷物を渡すなどトンンデモナイ!と断りましたが、秀家の頼みを無視できず、ついに荷物をひとつ渡してしまいます。
無事に帰港した船長は、処罰覚悟でこの事を正則に報告すると…
『よくやった!これでワシの面目が立った!』と上機嫌。
船長はお咎めなしでしたが、正則的にはかつて戦場で戦った敵でも戦後は武士の情けということで、秀家に関して結構寛容だったのかもしれませんね。
もし八丈島に流されていたのが三成だったら、船長はどうなっていたのやら…どこか憎めない武将ですね。
地元では英雄
加藤清正と比べると、なぜか人気が無い福島正則ですが、彼の出身地である愛知県あま市(旧美和町)では、正則は英雄扱いです。
町内のいろんな場所で彼の名前を見る事ができます。
私も最初行った時は驚きましたね。
そのレビューは、私のメインブログに書いていますので、時間がある時にチェックしてみてください。
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