関ヶ原合戦で東軍として戦った本多忠勝の陣址レビューと逸話について。
後世、徳川四天王のひとりとして数えられる本多忠勝は、家康と同じ三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)に生まれます。幼名は鍋之介。
徳川譜代の家臣に本多さんはたくさんいるのですが、忠勝の本多家は徳川家家臣団でも最古参(もっとも古い家臣)の家柄であり、忠勝の祖父、父は松平氏家臣として安祥城で亡くなっています。
ちなみに忠勝の名は、戦に出ても【ただ 勝つのみ】という親の願いから付けられたとも。
そんな願いが通じたのか、忠勝は生涯において57回出陣したそうですが、カスリ傷ひとつ負わなかったという豪傑ぶりです。
関ヶ原合戦では約500人(異説あり)を率いての出陣でしたが、ちょっと少ないのでは?と思ってしまいますよね。
というのも関ヶ原での忠勝の役目は主力として戦うというよりも目付(めつけ:全体の監督もしくは見張り役)というものだったそうです。
しかし合戦後半の島津勢の敵中突破の時、忠勝は追撃したらしく、徳川秀忠より贈られた愛馬・三国黒を撃たれて失っています。
そんな忠勝の陣址は現在でも残っています。周辺は住宅地として開発されていますが、路地の入口に石碑も建っています。
目印にしたいのが公門第二会館。公民館みたいな建物です。この建物の裏手に忠勝の陣址があります。
現地には陣址を示す石碑と案内看板、そして忠勝の旗が建っています。周辺は住宅地として開発されていますので、この他に陣址を偲ばせるものは残っていません。
鹿角兜のエピソ-ド
さて、忠勝のトレードマークといえば兜の鹿角ですが、これには忠勝の想いが込められたものでもあり、次の様なエピソードが残っています。
それは忠勝が元服するかしないかの永禄三年(1560)年頃のオハナシ。
そう、桶狭間の戦いの頃です。
この頃、徳川家康は松平元康と名乗っており、今川義元の家臣でしたが、尾張にあった今川方の大高城が織田信長に包囲され、兵糧攻めにされていました。
元康(家康)は義元より、敵に囲まれた大高城に兵糧を運び込むように命じられます。
これが世にいう大高城兵糧入れでして、忠勝はこの大高城兵糧入れが初陣だったそうです。
無事に大高城に兵糧を入れることに成功した元康たちでしたが、安心したのも束の間。なんと主君・今川義元が織田信長に討たれてしまいます。
義元討ち死にの報せを聞いた元康たちは、早急に桶狭間を離れ、故郷である三河国岡崎に戻ろうとしますが、雨で増水した矢作川(やはぎがわ)を渡れません。
グズグズしていると織田の追っ手がくるかもしれないという時、一匹の鹿が悠々と増水した矢作川を渡っていきました。
よく見ると浅瀬を渡っており、元康らは鹿が渡った浅瀬を渡り、岡崎の大樹寺に逃げ込みます。
この時、元康を救ってくれた鹿の様に自分も生涯、元康を守ろうと決意した忠勝は、兜を鹿角にしたと伝わります。
その後は前述した通り生涯57回も出陣し、
- 織田信長からは【花実兼備の勇士】
- 豊臣秀吉からは【日本第一、古今独歩の勇士】
- 武田方の小杉左近からは【家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八】
と、賞賛される程の働きをしました。
さて、そんな豪勇の忠勝でしたが、最期は意外なものでもありました。
忠勝の意外な最後
忠勝は晩年、自分の持ちものに名前を小刀で掘っていた時、誤って指を怪我してしまいます。
生涯57回の出陣において怪我ひとつしなかった忠勝は、これがはじめての怪我だったそうで、『私の命ももう長くはないだろう』と、家臣にこぼしたといいます。
そしてこの数日後に亡くなったそうです。
合戦では無双の強さを発揮し、最強ともいわれた忠勝の死因が指の怪我とは…
辞世の句は、死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えばというもので、晩年は政治の中枢から外され、また家康から遠ざけられた不遇であったにも関わらず、主君である家康への変わらぬ忠誠心を示したものでした。
忠勝の『忠』は、まさに忠義の『忠』ですね。
[ip5_box size=”box–large” title=”ほかの東軍陣址はもうチェックしました?” title_size=”” width=””]
[/ip5_box]