関ヶ原合戦で東軍として戦った浅野幸長の陣址レビューと逸話について。
浅野幸長(あさの よしなが)の父は豊臣五奉行筆頭の浅野長政です。
長政は鎗働きというよりも政治的な活躍が目立ちますが、浅野氏は織田信長の弓頭を務めた家柄でもあり、いろんな戦に出陣してささやかな武功をたてたりもしています。
関ヶ原合戦の時は甲斐国(現在の山梨県)府中16万石の領主でした。
また長政は秀吉から見ると義理の弟なので、その息子である長幸は思いっきり豊臣恩顧の大名でしたが、石田三成と確執があったために関ヶ原の戦いでは東軍として出陣しています。
ちなみに父である長政は秀忠と共に従軍して上田城に釘付けにされていました。
そんな幸長が陣を置いたのが現在の旧中山道の一里塚付近です。一里塚の上に石碑、そして前に看板が建っています。
ココで注意したいのが一里塚と陣址の順番です。
浅野幸長が陣を置いたのが先であり、その後、慶長九年(1604)に街道が整備された時に一里塚が築かれました。
なので長幸が陣を置いた時には、まだ一里塚が無かった(と思われる)ワケで、一里塚に陣を置いたワケではないんですね。少しややこしいです…
石碑は明治三十九年のもので、これもある意味貴重な石碑ですね。
関ヶ原合戦の時には一里塚は無かった(と思われる)ワケですが、この付近に陣を置いたということは、何かしらの理由があったのでしょう。
長幸は合戦では山内一豊、池田輝政らと同じく、家康の背後を固めるカタチで、南宮山の毛利勢に備えていました。
本戦では大した手柄はなかったものの、前哨戦である岐阜城攻めで活躍しており、戦後、紀伊国和歌山37万石へ加増転封されました。
その後、浅野家は歴史の中でも重要な役割を果たします。
娘と名古屋城本丸御殿の関係とは
まず、紀伊国和歌山に移った長幸ですが、娘の春姫が家康の十男で尾張国名古屋城主の徳川義直と結婚します。
これにより浅野家は徳川家と親戚になるワケですが、この時、春姫が入った本丸御殿が現在、名古屋城で少しずつ再建されています。
太平洋戦争で消失してしまった名古屋城本丸御殿ですが、それ以前は国宝に指定されていたということもあり、文化価値も非常に高く、再建が進む名古屋市で結構盛り上がっています。
名古屋城本丸御殿に入った春姫ですが、その後、大名の妻子は江戸に住むことが決まり、春姫も例外なく江戸に住むことになりました。
その後、名古屋城本丸御殿は上洛するための徳川将軍が宿泊する【御成り御殿】となったため、名古屋城主が居住することができなくなりますが、三代将軍・家光の後は実質の【空き御殿】となりました。
ということで、春姫は名古屋城本丸御殿に居住した唯一の女性ということになります。
その父が幸長ですね。
また時代が流れ、元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん:忠臣蔵のこと)の時に有名になった浅野内匠頭(あさのたくみのかみ:浅野 長矩)は、浅野長幸の同族でもあります。
関ヶ原合戦後も歴史を調べてみると、いろんなところにいろんな人物、出来事があって面白いですね。
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