関ヶ原合戦の開戦狼煙をあげた黒田長政、竹中重門の陣址だった岡山烽火場

関ヶ原の岡山烽火(のろし)場とは、関ヶ原合戦時に黒田長政と竹中重門が陣を置いた場所です。また丸山烽火場ともいいます。陣址には石碑と案内看板が建っています。キホンここも山ですが、三成陣址の笹尾山にくらべれば、まだ歩きやすいのかもしれません。

>>岡山烽火場の地図

眼下に広がる戦場


丸山(岡山)からの景色。現在住宅が建っている場所は、かつて東軍と西軍が戦った場所でもあり、戦場を見渡すことができる立地という事が分かります。小早川秀秋の松尾山はどこかな?

岡山烽火場の南に広がる東軍の布陣図。竹中重門は当初、西軍を支持していたみたいですが、後に東軍として従軍しており、関ヶ原の戦いでは長政と同じ場所に陣取りました。

二人の父親は秀吉の軍師ということで、後世、太閤の二兵衛(たいこうのにへえ)といわれる様になりますが、その息子達が関ヶ原では同じ場所に陣取っている…これも歴史のつながりを感じます。

特に長政的には、かつての命の恩人である半兵衛の息子と共に戦えたのも何かの恩返しだったのかもしれませんね。

竹中半兵衛に命を救われた長政

黒田長政の父は2014年大河ドラマの主役だった黒田官兵衛です。永禄十一年(1568)に黒田官兵衛の息子として生まれた長政は、幼名は松寿丸(しょうじゅまる)といい、天正五年(1577)から織田信長への人質として羽柴秀吉に預けられて、その時の居城・近江国長浜城にて幼少期を過ごします。

天正六年(1578)、信長に一度降伏した有岡城(伊丹城)の荒木村重という武将が、信長へ反旗を翻す事件が起こりました。

明智光秀、松井友閑、万見重元、福富直勝、佐久間信盛、羽柴秀吉などの説得の使者を何人も向かわせ、最後の使者となった黒田官兵衛は捕らえられてしまいます。

官兵衛は有岡城で投獄されてしまいましたが、信長は帰らない官兵衛を村重方に寝返ったと思い、松寿丸は処刑されそうになります。

しかし秀吉陣営にいた竹中半兵衛重治の機転により、竹中氏の居城・岩手山城下に匿われて、一命を取りとめます。この一件により大人になった長政竹中半兵衛を命の恩人と思うようになりました。

関ヶ原ではこんな活躍!

そんな黒田長政は関ヶ原合戦で非常に重要な役割を果たしています。まず松尾山の小早川秀秋に内通の約束をさせ、南宮山の吉川広家に毛利秀元を動かさないようにさせるなど、裏工作で本領発揮。

こういったスキルは官兵衛譲りだったのかもしれません。また開戦の烽火(のろし)をあげたのも長政といわれ、三成本陣も激しく攻め立てています。

重門は関ヶ原一の功労者?

竹中重門(たけなか しげかど)の父は、秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛重治です。関ヶ原合戦では、はじめ西軍を支持し犬山城の石川貞清を援助したりしていましたが、井伊直政の仲介もあって東軍として参陣します。

その後、居城である菩提山城を徳川家康に提供し、本戦では幼なじみの黒田長政軍に合力する形でで奮戦。さらに関ヶ原合戦からまもない9月19日、伊吹山山中で、西軍の武将である小西行長を捕縛するなどの活躍をし、後に家康から直筆の感状を受けてます。

さて、関ヶ原合戦は東軍の勝利に終わりましたが、歴史にあまりフォーカスされない部分があります。それが戦後処理です。

東軍、西軍、力一杯戦ったのは良いのですが、これにより戦死者は両軍合わせて6千人とも8千人ともだったと伝わります。これらの戦死者を弔ったのが竹中重門です。

当時の関ヶ原は重門の所領で、家康は戦死者の弔いを重門に命じると大坂に向かいますが、膨大な数の戦死者を埋葬するだけでもかなりの労力が必要だったのでしょう。現在に残る関ヶ原の東西の首塚は、重門が建てたそうです。

また戦場となった田畑を復旧させる等、戦の華々しさとは、かけ離れた歴史がありますね。東軍諸将もやりっぱなし状態だったので、見るに見かねた徳川家康は、戦没者に対する供養料という名目で、雀の涙ほどの1千石を下賜しましたが、それでもけなげに復旧作業に従事する重門。

家康的にも気にしていたのかどうか分かりませんが、その後、江戸幕府成立後、旗本(交替寄合席)として、美濃岩出山6千石を安堵され代々継承しました。

あまり目立たない竹中重門ですが、戦後処理や復旧といった地元には大事な作業を進めていますので、そういった武将がいたことは忘れてはいけませんね。ある意味、重門が関ヶ原合戦での第一の功労者なのかもしれません。

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