逸話に残る最後の言葉は名言か?それとも?長宗我部盛親陣址

長宗我部盛親の関ヶ原合戦の陣址レビューと逸話について。

 

盛親は長宗我部元親の四男として天正三年(1575)に生まれています。

 

もともと素行があまりよくなかったらしく、天正十四年(1586)の戸次川の戦いで長男の長宗我部信親が亡くなると、長宗我部家の家督は兄の香川親和、津野親忠らが家臣達に推されます。

 

しかし兄達はすでに他家の家督を継いでおり、また父の強硬な後押しがあったりで、盛親が天正十六年(1588)に家督を継ぐことになりました。

 

関ヶ原の戦いでは、当初、島津義弘と同じ様に東軍として参加したかった様ですが、長束正家らに進軍を阻まれやむなく西軍として参加。南宮山組でも後方に兵約6,000人(異説あり)で布陣します。

 

 

 

 

長宗我部盛親陣跡

盛親が陣を置いたといわれている場所は、現在、廃寺となっており、遺構らしきものも残っていませんが、陣址を示す看板が建っています。

 

中に入る事も散策もできます。この地に約6,000人で布陣した長宗我部軍ですが、その配置がどのようなものであったのかまではよく分かっていません。

 

長宗我部盛親陣跡の地図

 

 

 

 

長宗我部盛親陣跡の看板

陣址を示す垂井町教育委員会の看板。これくらいしか、かつての陣址を偲ばせるものはありません。

 

 

 

 

戦わずに敗北そして寺子屋の師匠に

さて、結構戦意バリバリだった長宗我部隊ですが、吉川広家が毛利隊を動かさなかったので長宗我部隊も参戦できず、小競り合い程度でやむなく撤退しています。

 

その後、土佐に戻った盛親でしたが、家康に謝罪しようとしていた矢先に兄である津野親忠を殺害してしまい、この事が家康の勘気に触れ領地没収のうえ改易。

 

大名としての長宗我部家は滅亡しました。

 

そして盛親は京都に移され、蟄居していたとも寺子屋の師匠をしていたとも伝わります。

 

 

 

 

大坂の陣で主力に

大阪城天守閣

しかし大坂の陣が起こり、盛親は大坂城に入城。

 

これに応じてかつての長宗我部家の再興を願う旧家臣たちも次々と入城して、大坂城に集結した牢人衆の中では、最大の手勢を持つ程になります。

 

このことから盛親は、真田幸村(信繁)、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登らと共に後世でいう【大坂城五人衆】に数えられる程の主力部隊となりました。

 

この時、秀頼に対し戦に勝った時の恩賞として土佐一国を所望したといわれ、大坂の陣参戦が旧領奪回を賭けた戦だったことが分かります。

 

しかし冬の陣、夏の陣でも活躍した長宗我部軍でしたが、大坂城は落城。

 

その後、捕らえられた盛親は、最後を迎え長宗我部家も完全に滅亡し、その代わりに土佐に入国したのが山内一豊ですが、盛親がもし東軍に付いて土佐の国一国を安堵されていたならば、幕末まで続いたのか?

 

そして坂本龍馬は歴史上の表舞台に出ることができたのか?

 

これも歴史のIFですが、想像してみるだけで楽しめますね。

 

ちなみに大坂の陣後に捕らえられた盛親の逸話が残されています。

 

捕らえられた盛親に徳川方の武将が尋ねました。

 

『戦に負けたのになぜ生きながらえているのか?』

 

この問いかけに盛親は、

 

『大将とは最後まで希望を捨てないものだ。私が行きながらえていたのは、いつか再起して再び徳川家康と一戦交えるためだ』

 

と言い放ったとか。

 

なんか三成も同じ様な事言った様な気がしますが、これが大将の心意気?なんですね。