辞世の句は大谷吉継とセットになっている!平塚為広の碑

関ヶ原古戦場に残る平塚為広の碑と大谷吉継のと友情を示す逸話を紹介します。

 

まず平塚為広の碑ですが、大谷吉継陣跡のふもとに旗と碑があるので、大谷吉継陣跡の山に登る時にセットで訪れることができます。

 

平塚為広の碑の地図

 

 

 

 

大谷吉継と共に参陣

平塚為広は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原合戦の時には1万2千石の垂井城主として合戦に参加します。

 

大谷吉継と共に行動し、挙兵しようとする三成を換言したりしましたが、結局、関ヶ原合戦となり、裏切りモードバリバリの小早川秀秋に対しての布陣ということで、大谷隊の前衛部隊360人を率いていました。

 

合戦時は病であった大谷吉継の代わりに軍を指揮していたとも。

 

 

 

 

小早川の回想

さて、合戦半ばに小早川秀秋が東軍へ寝返るとまず最初に標的となったのが大谷吉継の陣でした。

 

平塚為広は大薙刀を振り回し、小早川隊を三度退けたと伝わりますが、小早川隊に呼応するように脇坂安治、小川祐忠らも東軍に加わり、さらにもともと東軍だった藤堂隊、京極隊にも攻められたりで、まさに多勢に無勢。

 

もはやこれまでと思った時、為広は、ある行動に出ます。吉継のもとへ辞世の句を送ったのです。それが有名な

 

名のために 棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ 浮世と思へばという句。(by為広)

 

これに対して吉継は、

 

契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも(by吉継) と返句しています。

 

結局これが吉継と為広の最後の触れ合いで、為広はその後もしばらく孤軍奮闘していましたが、東軍へと寝返った小川祐忠の家臣・小川勘助隊の樫井太兵衛に討たれてしまいます。

 

吉継と共に戦場の露と消えた為広ですが、昭和十五年(1940)、為広の子孫たちが、為広の最後の場所といわれる藤川の地に「平塚為広の碑」を建立しました。

 

それが現在、大谷吉継の陣のふもとに残っています。

 

 

 

 

よく間違われるんですケド…

平塚為広の碑

さて、ココで注意したいのが、この石碑は墓ではなくあくまで石碑という点です。

 

たまに為広の墓と思って参拝する人もいるみたいですが、別にココに眠っているというワケではありません。

 

また陣跡も確実な場所として決まっておらず、大谷吉継と共に行動をした事が記録によってわかっておりまずので、地形、東軍の陣との距離などを考えても、この石碑の辺りに陣もあったのではないだとろうかとボランティアガイドの方もおっしゃっていました。

 

まあ、この辺は歴史の謎ですが、吉継の陣からもそんなに離れた場所ではなかったと思いますので、この辺りだったのでしょうか。

 

この平塚為広の石碑は、大谷吉継の陣跡、墓とセットで周ることもできますので、見落とさないようにチェックしておきたいですね。