関ヶ原古戦場の島津義弘陣跡レビューと逸話について説明します。
まずは陣跡をチェックしてみます。
島津軍の陣跡の目印は、関ケ原町関ヶ原(大字)小池の神明神社です。神明神社の裏手に陣跡があります。現在石碑と旗が建っています。
これが陣跡です。まさか神社の裏とは…最初探せませんでした。
石碑は2つありますが、そのうちのひとつに【小池】と刻まれています。
この【小池】とはこの場所の地名です。かつて小池村だった名残りです。
ちなみにこの神明神社前にはあまり広くないですが、車を5台ほど停めることができる駐車場もあります。
車派の人には非常に嬉しい駐車場です。
この周辺の道は狭いので、変なところに路上駐車していると通行車が通れなくなる事もあり迷惑がかかります。
車は駐車場に必ず停める様にしましょう。
ホントは東軍のハズが…
島津義弘は武勇で知られた人物でしたが、関ヶ原合戦では運の悪さが連発した様にも思えます。
当初、家康からの援軍要請を受けるカタチで東軍に付くつもりでしたが、伏見城で鳥居元忠に入城を拒まれ、やむなく西軍となりますが、数千〜一万を越える兵力が集まっていた西軍の中において義弘の手勢はわずか1,500ほど。(一説には3,000前後とも)
これを三成らに軽視されたのか、美濃墨俣の東軍との小競り合いで前線に展開していた島津軍は取り残されたり、その後夜襲を献策しましたが却下されたりで戦意消失。
さらに関ヶ原本戦においては、三成からの笹尾山援軍要請の使者であった八十島助左衛門(やそじま すけざえもん)が、馬から降りずに義弘に対して話しかけます。
いくら合戦中とはいえ無礼!ということで、八十島を追い返した義弘でしたが、もはや完全にせに戦意を失っていたとされています。
その後、小早川秀秋の裏切りで西軍が総崩れとなり、島津軍の退路も絶たれ、一時は自刃しようともしますが、どうせ死ぬならとあの敵中突破が行われたのです。
歴史にIFは禁物ですが、あえてもし義弘が東軍についていたら?
もし義弘の献策通りに夜襲が成功していたら?など、いろんな事を考えてしまいます。
さて、そんな事を考えながら島津義弘陣跡を南から見てみると、面白いことに気が付きます。
三成の陣跡・笹尾山から来ると平地に思われますが、南、つまり東軍側から見ると陣跡が少し高い場所にあるんです。
平地に陣を置いていたワケではなく、微高地にあったことが分かります。
笹尾山もそうなのですが、敵と戦う場合、高い所から低い所を攻めるほうが有利であり、陣を置くのも高いほうが防御が増します。
現在、島津軍の陣跡に堀や土塁などの遺構はありませんが、この微妙な高低差が陣跡の名残りですね。
[ip5_box size=”box–large” title=”ほかの西軍陣跡はもうチェックした?” title_size=”” width=””]
(南宮山組)
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