関ヶ原古戦場の小西行長の陣跡レビューと逸話を紹介します!
行長は西軍として関ヶ原合戦に参戦しましたが、歴史を振り返ってみると、西軍で小早川が裏切るまでちゃんと戦っていたのは、石田三成と宇喜多秀家、そして小西行長くらいです。
それでも前半は西軍有利に戦いを進めていたので、西軍が強かったのか?それともいろんな地の利が良かったのか?
この辺はよく分かりませんが、小西行長の陣跡を見てみましょう。
実は小西行長の陣跡は、結構スルーされることが多いのです。
なぜなら、この陣跡の目の前に開戦地の石碑がば〜んと建っています。関ヶ原を訪れた人は、『おお〜ココが開戦地か〜』とそれなりに納得して宇喜多秀家の陣跡に向かってしまうそうですが、開戦地の石碑の奥の小西さんをお忘れなく。
逆に見れば、行長の陣の目の前で関ヶ原合戦が始まったということですね。
こちらが陣跡の石碑。簡単な説明が書いてある案内看板もあります。
島津義弘の陣跡に続き、ココも駐車場があるのは嬉しいです。開戦地の駐車場とセットになっていますが、それだけ近くにあるということです。
もともとは商人でした
さて、あまり知られていない小西行長ですが、彼はもともと堺の薬商人・小西隆佐の次男として生まれ、岡山の商人のもとへ養子に出されました。
その後、商売のために度々宇喜多家に出入りしていたところを宇喜多秀家の父・直家に気に入られ家臣となりますが、秀吉の播磨三木城攻めの時、宇喜多家の使者として秀吉と対面します。
その時にも秀吉に気に入られ、後に秀吉家臣として豊臣政権では船奉行そして水軍を率いる事になりました。
かっこ良すぎる合戦後の逸話
そして関ヶ原合戦に至るワケですが、結果として東軍の勝利に終わりましたよね。ではこの後、小西行長はどうなったのか?
9月19日、徳川家康が草津(現在の滋賀県草津市)に到着しましたが、そこに関ヶ原の町人である・林藏主(りんぞうす)という者が小西行長を捕えて連れてきました。
実は小西行長は、関ヶ原合戦の敗戦後、しばらくいろんなところを転々とし潜伏していましたが、近江国(現在の滋賀県)伊吹山の東にある糠賀部村にて、この林藏主に発見されたのです。
行長は、もはや逃げることは不可能と思い、自ら
『私は小西行長である。お主は私を捕らえて内府(徳川家康)に突き出し、褒美に預かるがいいといい』と言い放ちました。すると林藏主は、
『それでは武士の恥でしょう。ここで切腹なさいませ』と自害を勧めましたが、行長は、
『私は切支丹(きりしたん)なので、自害することは禁じられている。だから私はここまで落ち延びたのだ。でも雑兵の手にかかるのは、はなはな無念なので、自分から名乗り出て、貴殿に知らせたのだ』と毅然に言い放ちます。
この言葉に行長の誇りを感じた林藏主は、行長を馬に乗せて、当時関ヶ原の領主であった竹中丹後守重門に云い届け、後に草津の家康の陣所まで送り届けました。
この事が伝えられると、徳川家康は小西行長の身柄を村越茂助に預けさせたうえ、林藏主には御褒美として、黄金10枚を与えたそうです。
最後までキリシタンの誇りを全うした行長。
その行長が戦った関ヶ原の現場は、今でも残っています。
歴史は掘り下げればどんどん面白くなります。
小西行長の動向や最期なども調べていくと、彼自身の誇りというか、ひとりの戦国武将の生き様を感じますよね。
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(南宮山組)
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