豊臣家五奉行のひとり長束正家の関ヶ原合戦の時の陣址レビューと逸話について。
この人ものぼうの城に出ていたので、最近ちょっと有名です。
五奉行といえば戦には出ず、どちらかというと後方支援のイメージがありますが、関ヶ原の戦いでは正家も軍を1,500人(異説あり)の兵を率いて出陣しました。
長束氏は、もともと大蔵氏、もしくは水口氏と名乗っていましたが、天正年間のはじめ頃、居城水口城が落城したため長束村に移り、その地名を取って長束氏を称したとの説があります。
ちなみに熊本藩の侍帳の正家の子孫の項目に、正家の父盛里までを水口氏とし、正家以降を長束氏として記録しているそうです。
これとは別に正家の生まれを永禄五年(1562)とし、水口盛里の長男として近江国栗太郡長束村もしくは尾張国でうまれたという説もあり、出自はよく分かっていません。
正家は槍働きというよりも算術が得意で、太閤検地や行政で名を残しており、小田原攻めや文禄・慶長の役では兵糧奉行を務めています。
こういった後方支援は戦では無くてはならないものですが、加藤清正、福島正則の武断派からみれば、『前線に出ず安全なところで楽している奴ら』的に見られており、やはり仲はあまりよくなかったみたいですね。
ということで関ヶ原の戦いでは三成に加担し、毛利秀元らと共に南宮山ふもとに布陣しています。
そんな長束正家の陣址がこちらです。
現地にはほぼ何もなく、垂井町教育委員会の傾きかけた看板があるのみ。
正直、この場所を探すのに苦労しました…車が無くてはかなりキツイので、周辺の長宗我部盛親陣址と共に車で訪れてみたい陣址ですね。
陣址の周辺はこんなカンジです。
見渡す限り田畑が広がっており、陣址の遺構らしきものもありません。
意外と知られていない正家の義理の兄
さて、関ヶ原の戦いでは、結構戦う気満々の正家でしたが、毛利秀元が吉川広家に押さえられて出陣できず、正家も単隊で東軍を攻撃するワケにも行かなかったので、ほぼ傍観していました。
たまに池田輝政隊と小競り合いがあったみたいですが、合戦後は秀元らと共に戦場を離脱。
この時、島津隊に道案内の使者を遣わしています。
居城である水口城になんとか戻った正家でしたが、寄せ手の亀井茲矩・池田長吉に本領の安堵を約束され城から出ますが、実はこれが罠でして、すぐに捕らえられて近江日野で最後を迎えます。
その後、居城であった水口城に残された財産は、池田長吉にことごとく奪われたというなんともあり悲惨な結果に終わっています。
ちなみに正家の正室は本多忠勝の妹・栄子で、忠勝から見れば義理の弟にあたるワケですが、正家が捕らえられた後、忠勝から助命嘆願みたいなものが出された記録は今のところ見つかっていません。
[ip5_box size=”box–large” title=”ほかの西軍陣跡はもうチェックした?” title_size=”” width=””]
(南宮山組)
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