関ヶ原合戦の毛利秀元の陣跡レビューと逸話を紹介します。
毛利秀元の陣は、現在の南宮大社がある南宮山山頂にあり、ハイキングコースで登る事ができます。
もしかすると毛利家当主になってた?
毛利秀元は知略で名を馳せた毛利元就の4男である穂井田元清(ほいだ もときよ)の長男。つまり毛利輝元は従兄にあたります。
毛利家本家を継いだ輝元には長く実子が無く、秀元を養子としました。
天正十八年(1590)に元服し、また、天正二十年(1592)には、肥前名護屋城に向かう途中で広島城に立ち寄った豊臣秀吉と面会し、輝元の後継ぎと認められて、豊臣姓と羽柴姓、そして秀吉の偏諱である『秀』の字を与えられ秀元と名乗る事になったそうです。
文禄四年(1595)に輝元に実子の松寿丸(これが後の毛利秀就)が生まれると、秀元は毛利家本家の家督相続を固辞することになります。
そして同年2月には秀吉の養女である大善院(大和大納言・豊臣秀長の娘)を正室に迎えています。
海の向こうでも武闘派大名
その後、文禄・慶長の役にも参陣。特に慶長の役では、当時病気の輝元に代わって毛利軍3万を率いて右軍の総大将となるほどの人物でした。
単なるお坊ちゃん大名ではなく、慶長二年(1597)には従兄であるの吉川広家らと共に再度朝鮮に渡海。
加藤清正、黒田長政、鍋島直茂らと共に朝鮮軍が籠城していた黄石山城を陥落さるなど、バリバリの武闘派で、黒田長政が明軍と交戦中との急報を受けると、すぐに救援に駆けつけて、明軍の背面より突撃して撃退したりしています。
その後、日本に帰国した秀元は、関ヶ原合戦の前年である慶長四年(1599)に別家を立てて独立。
長門一国と周防吉敷郡、及び父・穂井田元清の遺領の安芸佐伯郡を含めた合計17万石余を毛利家から分知され、名実共に西国の大名となっています。
しかし未だ若年であったため、安国寺恵瓊が秀元の後見人となり、補佐役にもなっていました。この関係が関ヶ原へと繋がっていくのです。
さて、そんな毛利秀元の陣へ行くには、南宮大社(なんぐうたいしゃ)からハイキングコースを使って登っていきます。
南宮大社は美濃国の一宮で、岐阜県不破郡垂井町にあります。もともとは南宮神社という名前でした。
慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の時に消失しましたが、徳川家光が寛永十九年(1642)に再建しました。
この境内の奥に南宮山の頂上へ延びる道があります。
神社の境内を抜けハイキングコースへ。途中、安国寺恵瓊の陣跡もあり、このハイキングコースで2つの史跡をチェックする事ができます。
こ〜んな道を歩いていきます。
整備された観光地というワケではないので、ココも大谷吉継陣跡や笹尾山と同様に足元はスニーカーなどでシッカリ固めて行きたいですね。
途中にある高山神社と子安神社。
秀元陣跡への道しるべにもなっている神社で、この2つの神社をチェックできるということは、正しい道を歩いているというワケです。参拝しつつ陣跡を目指します。
そしてたどり着いた毛利秀元陣跡。現場には石碑と案内看板が建っています。
ブログだとサクッと着いたみたいに書いていますが、結構な登りで、史跡巡りというよりもやはりハイキングに近い感がありますね。
陣跡から見る景色。実際に現地に立ったスルドイ人は気付くと思いますが、この陣跡は関ヶ原がある西側ではなく、大垣城の東側に向けて景色が開けています。
これについて、大垣城に篭っていた三成が、もし東軍が大垣城をスルーして関西方面に進むのであれば、南宮山に陣取っていた部隊と共に東軍を挟み討ちにするつもりであったのではといわれています。
つまり南宮山は関ヶ原合戦のために布陣を考えていたのではなく、当初は東軍を挟み討ちにするための陣場であったと。
この説もこの景色を見ているとナルホドと思ってしまいます。
秀元と鮭弁当
(写真はイメージです)
関ヶ原合戦でもキーポイントだった毛利秀元ですが、関ヶ原よりも鮭弁当の逸話の方が有名かもしれません。
関ヶ原合戦後の江戸時代。
三代将軍・徳川家光のお伽衆となった秀元は、毎晩江戸城に登城して、家光にいろんな話をするという御役目がありました。
この御役目がある時は屋敷から弁当を持参して、皆でワイワイ話しながら食べる習慣があったのですが、ある時、干し鮭を弁当に入れて持ってきたことがありました。
鮭は現代では普通に庶民の魚として知られていますが、当時は【高級魚】だったので、皆、秀元の弁当に群がります。
お人よしだったのか、秀元は皆に鮭を分けていたら自分が食べる鮭も無くなっていたということです。
武闘派で関ヶ原のキーポイントだった武将の意外なエピソ-ドですね。
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(南宮山組)
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