宰相殿の空弁当の逸話はこの人でした | 吉川広家陣址

関ヶ原合戦の南宮山組でとにかく大事な役割だったのが吉川広家です。

 

彼は永禄四年(1561)、吉川元春の三男として生まれます。つまり毛利元就の孫ですね。

 

本能寺の変後、天下人となった秀吉のもとへ、毛利元就の9男で叔父でもある小早川元総(こばやかわ もとふさ:後の毛利秀包)と共に送られましたが、元総が秀吉に寵愛され豊臣家の大名として取立てられたのに対し、広家はすぐに大坂から毛利家に帰されています。

 

毛利家に帰った広家でしたが、天正十四年(1586)〜翌天正十五年(1587)にかけて、父・長兄が亡くなってしまいます。

 

このため吉川家の当主となり、居城である月山富田城と出雲国三郡、そして伯耆三郡と安芸一郡、及び隠岐一国に及ぶ合計十四万石の所領を継承し、これにより広家も晴れて大名になることができました。

 

その後、佐々成政が入国した後の肥後国人一揆、文禄・慶長の役にも出陣しています。

 

 

 

 

関ヶ原で生まれた宰相の空弁当の故事

関ヶ原合戦で毛利秀元、安国寺恵瓊らと共に南宮山に布陣した広家でしたが、実は東軍の黒田長政と【毛利秀元を南宮山から動かさない】という密約を交わしていました。

 

これは西軍に味方するよりも、東軍に味方した方が毛利家の安泰のためだったといわれていますが、広家が個人的にも三成が嫌いだったという説もあります。

 

しかし他の南宮山組である安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親らから出陣の催促の使者が来ますが、広家は霧が濃いなどを理由に出陣を拒否。

 

さらにシビレを切らした毛利秀元からも出陣の催促が来ますが、

 

『これから行厨(こうちゅう:弁当の意味)を食べるからもう少し待って!』と言って出陣を拒否。

 

この弁当を食べているうちに西軍が総崩れとなり敗走した事から、宰相殿の空弁当という言葉が生まれています。

 

 

 

 

吉川広家陣跡

そんな吉川広家の陣址がこちらです。

 

現在では国道21号線南の県立不破高校の前に看板が立つのみで、陣址の遺構らしきものは残っていませんが、南宮山のふもとに位置した立地から、ここが南宮山の出入り口だったと想う事ができます。

 

吉川広家陣跡の地図

 

 

 

 

裏目に出た広家の行動

さて、関ヶ原の戦いは東軍の勝利となり、家康との約束通り毛利本隊を動かさず、これで毛利家は安泰!と考えていた広家でしたが、意外な展開が起こります。

 

大坂城に西軍の総大将として入城していた毛利輝元の花押が押された連判状が多数、発見されたからです。

 

輝元は無理やり総大将に担ぎ上げられたという広家の主張でしたが、『積極的に西軍として参加してる』と受け止められてしまい、毛利家改易という処分が下ります。

 

この時、広家の懸命の弁明により、広家に与えられるハズの周防、長門の二国を毛利家に与え、吉川家はその一部の所領・岩国をもらいますが…

 

もともと毛利家は関ヶ原合戦以前、112万石だったのに対し、戦後は37万石と大減封になってしまいます。

 

このことから吉川家は毛利家から冷たい目で見られることになりますが、広家は毛利家を救ったのか?それとも危機に追いやったのか?

 

歴史もそれぞれの人物目線で見てみると、違ったふうに見えてきます。