戦国時代の預言者の意外な最後 | 安国寺恵瓊陣址

関ヶ原合戦の安国寺恵瓊の陣跡とエピソ-ドです。

 

毛利秀元が陣取った南宮山のふもとに安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)の陣跡があります。

 

安国寺恵瓊陣跡の地図

 

 

 

 

信長?長くないね!

恵瓊はもともと毛利元就に滅ぼされた安芸武田氏の一族といわれ、天文十年(1541)、安芸武田氏滅亡後、家臣に連れられて脱出し、同じ安芸国の安国寺(不動院)に入って出家し僧になりました。

 

後に毛利家に外交僧として仕え、羽柴秀吉の毛利攻めの時、秀吉に近づき、本能寺の変後に秀吉に仕えたといいます。

 

また恵瓊の人を見る目は鋭く、伝わる逸話に次の様なものが残されています。

 

 

 

 

鉄砲衆

天正元年(1573)、長篠設楽ヶ原合戦で武田氏を破った織田信長は、勢力を拡大しており、毛利領内にも羽柴秀吉を大将として攻め込んできました。

 

毛利家家中の中には織田家と和睦、もしくは臣従した方が得策という考えもありましたが、恵瓊は児玉三右衛門、山県越前守、井上春忠らに宛てた書状で、当時急成長中だった織田信長の転落と、その家臣である羽柴秀吉の躍進を予想します。

 

結果としてこれが本能寺の変、そして後に秀吉が天下人となったということで的中したことになりました。恵瓊の慧眼を示す逸話としてよく引き合いに出されています。

 

この予言から、人を見る目が鋭かったといわれている恵瓊ですが、関ヶ原合戦ではその慧眼も鈍っていたのか、吉川広家の東軍内通を見抜くことはできませんでした。

 

いや、もしかすると見抜いていたのかもしれませんが、どうしようもなかったのかもしれません。

 

 

 

 

安国寺恵慶陣跡

さて、そんな恵瓊の陣跡ですが、南宮大社から毛利秀元陣跡があった山頂に登る途中にあります。

 

現在では案内看板が立つのみで、ほかに陣跡の遺構らしきものは残っていませんが、ココに恵瓊が約1,800(異説あり)の兵で陣取っていたのですね。

 

見方によっては南宮山の秀元陣跡への入口を固めていたようにも思えます。

 

 

 

 

恵瓊を捕らえたのは強右衛門の息子

恵瓊は石田三成と共に家康打倒を目指し、関ヶ原合戦時には毛利家当主・輝元を西軍の大将にすることを成功させています。

 

実際には輝元は大坂城に入り、関ヶ原には輝元の従弟である毛利秀元が西軍として南宮山に布陣しますが、結果、東軍と戦うことはなく、また動かなかったにも関わらず、撤退の際に東軍から攻撃を受けるハメに。

 

恵瓊も結局、吉川広家が秀元を止めていたので、南宮山の西軍は関ヶ原本戦には参加できず、撤退の際に東軍に敵とみなされ追撃されつつ撤退しましたが、合戦後は京に潜伏していたそうです。

 

その後、奥平信昌家臣の鳥居信商に捕らえられ、大津にいた徳川家康のもとへ送られ最後を迎える事に。

 

ちなみにこの鳥居信商という人物は、長篠城攻防戦で奥平軍の使者として家康のもとへ援軍要請に行った鳥居強右衛門(とりい すねえもん)の息子です。

 

強右衛門は今でも長篠城址がある愛知県新城市では英雄扱いされています。

 

さて、その後石田三成や小西行長らと共に西軍の首謀者として京都で最後を迎えましたが、辞世の句は、

 

【清風は明月を払い明月は清風を払う】というものでした。

 

この句は、『私は、この場に及んで何の後悔も恐怖心もない。なぜなら人としてどう生きるか、といった大きな大義に向かって生き切ったからである』という意味だとか。

 

結構、スルーされがちな安国寺恵瓊陣跡ですが、ココも西軍ゆかりの地としてチェックしておきたいですね。