関ヶ原町の大谷吉継陣址の近くに山中という地区があります。ココは織田信長ゆかりのエピソードが残る場所なんです。

 

またこの山中地区はかつて中山道の宿場があった場所で、源義経の母である常盤御前の墓があります。

 

 

 

 

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常盤御前の墓は全国にいくつかありますが、この地の伝承によると武蔵坊弁慶達と共に東国へ向かった義経を追って、乳母・千種と山中の地にたどり着いた常盤御前は、盗賊に襲われ亡くなってしまいます。

 

これを知った山中の里人たちは常盤御前と千種を哀れんでこの地に葬り塚を築いて供養したそうです。

 

今でも山中には常盤御前と侍女の千種(ちくさ)のものと伝わる墓が2基あり、江戸時代には松尾芭蕉もこの地を訪れたそうです。

 

ココまでは常盤御前のオハナシということで地元にも看板が建っていますが、さて、本題である織田信長とどう関係があるのか?

 

じつはココからのエピソードは信長の一代記・信長公記に記載があります。

 

 

 

 

 

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信長公記によると、時期的には天正三年(1575)頃で長篠・設楽原合戦の後くらい、そしてまだ安土城を築く前のオハナシ。

 

この頃、信長はまだ岐阜城を拠点にしており、京へ頻繁に往来する時、中山道をよく通っていました。

 

しかしいつも同じ場所で身体に障害がある乞食が雨露にうたれていたのです。

 

ある時、信長はこれを不審に思い、

 

『乞食は普通、住む場所を決めずにさすらい歩くものだが、この者はいつも同じ場所に居る。何かワケでもあるのか?』

 

と、山中の里人に尋ねました。

 

すると、その昔、山中の宿場で常盤御前を殺した盗賊がおり、盗賊達の子孫はなぜか皆、代々身体に障害を持って生まれて山中で乞食をしているのだとか。

 

そのためこの障害をもった盗賊の子孫を山中の猿と呼ぶようになったそうです。

 

 

 

 

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それからしばらくして、信長はまた京に上る事になりましたが、ふと、山中の猿の事を思い出し、忙しい最中、自ら木綿二十反を用意して、お供の者に持たせ山中の宿場に向かいました。

 

そして山中の宿場に着くと、この地の男女とも全員集めろと触れを出しました。

 

何事かと思った人々は恐る恐る出頭しましたが、信長の口から出た言葉は意外なもので、なんと山中の猿についての事でした。

 

まず信長は持参した木綿二十反の半分を費用にあてて、猿の為に小屋を作って住まわせ、飢え死にしないように面倒を見てやってほしいと言い、さらに近隣の村人達に、麦、米の収穫があったら負担にならない程度、少しずつ猿に分けてあげてくれれば私は嬉しい、言い添えました。

 

この信長の言葉に猿はモチロン、集まった人達は皆、涙を流し、皆、少しずつ銭を猿の為に出し合ったそうです。

 

信長といえばちょっとコワいイメージがありますが、こんな優しい一面もあったんですね。

 

 

 

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また関ヶ原がある岐阜県のお隣りにある愛知県には、信長ゆかりの清洲城(きよすじょう:清須城とも)がありますので、関ヶ原とセットで訪れてみるのもイイですね。

 

>>清州城のアクセスや観光ポイントの詳細はこちら

 

以上、関ヶ原に残る織田信長のエピソードでした。

 

常盤御前の墓の地図