関ヶ原の戦いの戦死者は6千人とも8千人とも伝わり、それらの供養のために2つの首塚が建てられました。そのひとつがこの西首塚です。
今では関ヶ原町の史跡にもなっています。
ちなみに東首塚には駐車場がありますが、西首塚には駐車場はありませんので、車で史跡を巡っている人は近くに車を停めて参拝してみましょう。
またこの西首塚の北側を東海道本線が走っていますが、明治三十三年(1900)の工事の際に、建設現場で五輪塔などの墓石が出土したという記録が残っています。
この事からと現在の線路が通っているところまで塚があったということになるので、もともともの規模はかなりの広範囲だった事が分かりますね。
場所は藤堂高虎・京極高知隊の陣跡の関ヶ原中学校の北側に位置しています。
目の前を国道21号線が通っており、【病院前】というバス停がありますので、これを目標にしてみましょう。
この首塚を建てたのが、この地の領主であった竹中重門。
あの有名な豊臣秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛重治の息子です。
関ヶ原の戦い後、竹中重門は徳川家康より1千石の米を供養料として下賜され、またこの地の領主として不破郡岩手6千石を安堵されました。
その後、子孫は徳川将軍家の旗本交代寄合として、岩手城(岩手陣屋)に居を構え、代々この地の領主として、明治時代まで存続します。
なので江戸時代を通して関ヶ原の地で供養を行ってきたのが竹中氏ということですね。
首塚の前にお堂が建っていますが、これは江戸時代になってから十一面千手観世音、及び馬頭観世音を祀る堂が建てられたとか。
戦死者の供養のためですね。
現在でも西首塚周辺に住む人達によって、供養、維持管理が行われています。
塚の上を見てみると、古いお墓が点在していました。中には崩れかけたものもあり、詳しい年代は分かりませんが、ひょっとして数百年前のものかもしれません。
合戦というと、どうしても華々しい武将の活躍がピックアップされがちですが、その戦いで亡くなった人の事も忘れてはいけないと思います。
武将の活躍が歴史の【光】の部分というなら、戦死者は歴史の【影】の部分になるのでしょうか。
でもひとりひとりに名前があり、また人生があったワケで、いろんな理由で関ヶ原の戦いに参陣し、故郷に帰ることなくこの地で亡くなってしまった人達がいたことを知るということも大事ですね。
また周辺の方々の塚の維持管理も大変な事だとは思いますが、これからも供養を続けてほしいです。
できれば関ヶ原に訪れた時に参拝したい歴史史跡のひとつだと思います。