【島津の退き口 5/6】
島津豊久の墓である島津塚の近くに瑠璃光(るりこう)禅寺というお寺がありますが、ココは豊久の菩提寺でもあります。
また島津塚を維持管理しているのがこの瑠璃光禅寺でもあります。
元亀元年(1570)、島津家久の子として誕生した豊久は、天正十二年(1584)島津氏が龍造寺氏を破った沖田畷の戦いで初陣を果たし、その直後に肥後国(現在の熊本県)で元服します。
しかし父・家久は秀吉の九州攻めが行われた天正十五年(1587)に死去しており、豊久はその跡を継いで日向佐土原城(宮崎市佐土原町)の城主となります。
この後に秀吉も直々に豊久に特別に所領を与える様に島津義弘に命じたといわれています。
また父を亡くした豊久は孤独でしたが、伯父である義弘が実子同様に養育したといわれ、そのために義弘を親同様に慕い、恩義を感じていたそうです。
関ヶ原合戦もそんな義弘への想いがあって参陣したのでしょう。
また島津の退き口で必死に義弘を退却させようとしたのもこういった経緯からだと思います。
瑠璃光禅寺の入口には『嶋津(島津)豊久公菩提所』の石碑が建っています。
江戸時代にも島津家は江戸に向かう参勤交代の途中に瑠璃光禅寺や豊久を介抱したといわれる三輪氏へ使者を送り、豊久が亡くなった時礼を謝してたそうです。また瑠璃光禅寺への祭祀料も欠かさなかったとか。
瑠璃光禅寺の境内。本堂には豊久の位牌が祀られているそうです。私が参拝したこの日はよく晴れた風が穏やかな日でしたが、かつてここにも関ヶ原合戦の一幕があった地なんですね。
ちなみに豊久死後、領地であった佐土原は、後継ぎがいないということで、一度は徳川氏に接収されましたが、後に一族である島津以久が入り存続させます。
また豊久には子供がおらず、家は姪の婿である喜入忠栄(島津忠栄)が相続しました。
しかしその系統も寛永元年(1624)に断絶してしまいますが、後に18代当主である島津家久(忠恒)の子・久雄が継嗣に入って、永吉島津家として残る事になります。
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