【島津の退き口 2/6】
烏頭坂(うとうざか)とは、関ヶ原合戦時に島津隊の副将格だった島津豊久が激戦の末、東軍を食い止めた地といわれ、豊久の碑がある場所です。
関ヶ原を離脱した島津隊でしたが、東軍の激しい追撃により、300人だった兵は次々に力尽きてしまいます。
この時、豊久は先陣でしたが、大将である島津義弘を逃すために【捨て奸】(すてがまり)にて東軍を食い止めます。
捨て奸とは
捨て奸とは、隊の一部が離脱して、追撃してくる敵と戦っている間に本隊を逃すという戦法で、これにより義弘は遠く逃げ延びる事が出来ましたが、逆に捨て奸となった部隊はほぼ全滅するという凄まじい戦法です。
この烏頭坂で豊久が捨て奸の大将となったワケですが、モチロン無傷でいられるわけもなく、かなりの傷を負ったみたいです。
烏頭坂というだけあって、現在も南の方へ下っている坂です。ということはココがかつての伊勢街道ということになるのでしょうか?
今ではアスファルト舗装の綺麗な道になってますが、もしこれが当時の街道であるなら、もっと道幅も狭かったでしょうね。
現地に建つ看板。豊久の奮戦の事や右側には島津の退き口ゆかりの史跡を地図で記載してあります。こういった看板は貴重ですね。略図ではありますが、地図全体でどこにどんな史跡があるのかチェックできて便利です。
看板がある場所から登ってみると、豊久の碑がありますが、一説によると墓とも伝わります。実は豊久については現地にもいろんな説があります。
[ip5_coloredbox color=”colored-box–green” width=””]
- この地で最後を迎えたした。
- 逃げ延び、現在の上石津町上多良(かみいしづちょう かみたら)地区にたどり着いたものの、落ち延びてきた豊久たちを村人が拒絶したため、豊久は無念に思い上多良地区で亡くなった。
- 上多良地区にたどり着いた重傷の豊久を村人たちは必死に看病。しかし豊久は東軍に追われる身であって、村人達が徳川によって処罰されるのが忍びなく思い自刃した。
[/ip5_coloredbox]
これらの説のおもしろいところは、(2)と(3)が真逆な点。
実際に上石津町上多良地区には、豊久の墓といわれる島津塚が残っています。その辺はまた以後のレポにて。
さて、烏頭坂の碑を建てたのは島津忠重という人で、第30代島津氏当主。お墓とも伝わりますが、一応、これは豊久の碑ということで。
看板が建つ裏側をよく見てみると、登る道がありますので、そのまま登ってくるとこの地に着きます。
島津ファンは特にチェックしておきたい史跡です。
[ip5_box size=”box–large” title=”他の島津の退き口記事は、もうチェックしましたか?” title_size=”” width=””]
[/ip5_box]