【島津の退き口 4/6】
関ヶ原での敵中突破でなんとか東軍の追手から逃れた島津豊久は、烏頭坂で重傷を負いましたが、なんとか現在の上石津町上多良(かみいしづちょう かみたら)地区にたどり着きました。
豊久はここより先には進めず、この上多良地区で亡くなったと伝わり、豊久を供養したのが島津塚です。
しかし上多良地区には、豊久にまつわる伝承が2つあります。
[ip5_coloredbox color=”colored-box–green” width=””]
- この地の村人達に拒まれて亡くなった。
- 逆に村人達の懸命な看護に感謝した豊久は、村人達に害が及ばぬ様、自らの手で命を絶った。
[/ip5_coloredbox]
これを見ると真逆な2つの説ですが、どちらにせよこの地で亡くなったという点では一致していますよね。
参考までに、関ヶ原からこの上多良地区までは約13キロほど離れていますので、徒歩では効率が悪すぎます。
関ヶ原とセットにする場合は車で訪れたほうが良いかもしれません。
豊久の墓の目印は、上多良公民館。
豊久の墓へ行くには上多良地区の入り組んだ道を進むワケですが、似たような風景や同じ様な道もあり、慣れない人は迷う可能性もあります。
現に私も4回ほど迷いましたし ^^;
そんな時は上多良公民館を目指します。お墓はこの建物の近くにありますので、もし道に迷ったらこの公民館への道筋を聞くようにしましょう。
【案ずるより聞くが易し】というのが史跡巡りの鉄則です。
墓所の前にある観光用の史跡案内看板。こういった看板があると助かりますね。詳しく解説してあるので、この看板も参考にしましょう。
墓所へは細い道を森の中に入っていくカタチになります。もし夏場に訪れるのであれば、薮蚊対策などで虫除けスプレーなどがあるといいですね。
豊久の墓所は今では観光地として有名になっていますが、あくまで墓所なので、節度をもって参拝したいです。
墓所に入るとひっそりとした空気が流れていましいた。また入ってすぐのところに『島津中務大輔豊久公墳墓之地』という石碑が大きく建っています。この他に神社があり、その奥にお墓があります。
豊久の墓。古い五輪塔が二基ありますね。
この地に埋葬されたそうです。豊久が亡くなった地は烏頭坂という伝承もありますが、上多良地区ではこの地で亡くなったという説が根強く残っており、豊久を偲ぶ人達が参拝を続けているとか。
お墓の維持管理も大変だと思いますが、これからも守って頂きたいですね。
豊久は31歳という若さで亡くなりましたが、もし無事に薩摩まで逃げ延びていたとしたら、その後どの様な活躍をしたのか。
これも歴史のIFですが、こういった史跡の前に立つと歴史の『もしも』につい、フォーカスしてしまいます。
[ip5_box size=”box–large” title=”他の島津の退き口記事は、もうチェックしましたか?” title_size=”” width=””]
[/ip5_box]