【島津の退き口 3/6】
関ヶ原合戦終盤でみせた島津の退き口は、6万人以上の東軍がひしめく中、わずか300人で島津隊は的中突破を行うという前代未聞の逃走劇でした。
これだけの逃走劇は様々な戦や武勇伝が残る戦国時代でも他に例を見ません。
普通なら戦場の露と消えてしまいそうな島津隊の人数ですが、屈強を知られた薩摩兵の意地を見せつけた戦いでもありました。
しかし!
島津隊も被害は大きく、島津義弘の甥で島津隊の副将格だった豊久も重傷を負い薩摩に帰ることができなかったほど、すさままじいものでした。
また島津義弘の家老・長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)もこの島津の退き口で最後を迎えたひとりです。
盛淳は室町幕府三管領の一つである守護大名・畠山氏の分家といわれ、『長寿院』は出家した後の苗字。
島津義弘の家老で、太閤検地の奉行なども担当しています。
また関ヶ原合戦では少ない手勢ながらも屈強で知られた部下・70人を引き連れて参陣し、盛淳が到着した事を知った義弘は盛淳の手を取って喜び、かつて太閤秀吉から賜った自分の白い鳳凰模様の陣羽織を贈り、また石田三成は軍配を贈ったといわれています。
それだけ義弘の信任も厚かったのですね。
しかし皮肉にも盛淳が最も名を馳せる事になったのは、この関ヶ原合戦の『鳥頭坂の退却戦』でもあります。
盛淳は烏頭坂で東軍の追手を食い止めようと、義弘から拝領したての鳳凰模様の陣羽織を着て戦ったそうです。
その長寿院盛淳は、現在の琳光寺に祀られています。この地にて亡くなったのか、後に祀られたのか不明ですが、琳光寺には盛淳の墓があります。
これが長寿院盛淳の墓。
今でも献花が絶えることなく、また参拝者も多いそうです。島津義弘が無事に薩摩に撤退できたのも豊久や盛淳たちの働きのおかげという事を忘れてはイケマセンよね。
盛淳の墓の後ろにあるお墓。これは家臣達のお墓でしょうか。
東軍を食い止める時、捨て奸の隊を作った島津隊ですが、命ぜられるより志願した兵が多かったそうです。
それらの兵が東軍に立ち向かったワケですから、東軍の被害が大きかったのも頷けますね。
また関ヶ原合戦後、島津氏を処分しようとした家康ですが、この退き口の戦いぶりから、薩摩兵の凄まじさを思い知らされ、力攻めを断念し和睦というカタチで恭順を受け入れたとか。
そう考えてみると、この退き口での戦闘がその後の島津家を守ったとも受け取る事ができますね。
この琳光寺も忘れることなく参拝したい史跡のひとつです。
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