島津の退き口とは?

【島津の退き口1/6】

 

島津の退き口(しまづののきぐち)とは、関ヶ原合戦終盤に島津隊が行った凄まじい逃走劇です。

 

慶長五年(1600)9月15日の関ヶ原合戦に島津隊は約1,500人で参陣。しかし前哨戦である杭瀬側の戦いで三成においてけぼりにされたり、その後の夜襲を提案しましたが三成にサクッと断られたりして、本戦ではとにかく動かなかった島津隊。

 

合戦中盤になると小早川勢が東軍に寝返り、西軍は次々と壊滅していく中、島津隊はなんと東軍の一番勢いがありそうな隊に突撃しようとします。(これが家康本隊だったとも)

 

しかし敵の目前にてイキナリ方向を変え、そのまま伊勢街道をまっしぐら。

 

戦線離脱だったワケです。

 

この時、合戦前は1,500人ほどいた島津隊ですが、すでに300人くらいに減っていました。

 

この行動において、最初、島津義弘は敵に突撃して討ち死にしようとしましたが、副昇格で甥の島津豊久が必死に止めたという説もあります。

 

 

 

合戦の様子

ともあれ、関ヶ原を逃げるカタチになった島津隊ですが、士気が高い東軍諸隊はこれを追撃し討ち取ろうとしますが、島津隊は【捨て奸(すてがまり)】という戦法で東軍を食い止め、逃げ続けます。

 

これにより東軍諸隊の記録も残っており次のとおり。

・福島正則⇒島津隊のあまりの気迫に途中で追撃を中止

・本多忠勝⇒徳川秀忠から贈られた愛馬・三国黒が狙撃される

・井伊直政⇒追撃途中で狙撃される。2年後この傷がもとで亡くなったとも

・松平忠吉⇒この人も狙撃され負傷。直政より長生きしましたが、やはりこの時の傷がもとで亡くなったとの説があります。

まさに意地を見せつける島津勢ですね。

 

しかし多勢に無勢。

 

島津隊の副将格だった豊久をはじめ、家老の長寿院盛淳といった重臣達も次々に力尽きてしまい、倒されてしまいます。

 

それでも大将である島津義弘は大阪に着き人質を取り戻し、そのまま海路で薩摩へ逃れることに成功。この時すでに80人程になっていたそうです。

 

後世、この島津の逃走劇が【島津の退き口】といわれるようになり、諸大名たちは島津氏の武勇を恐れ、また高く評価するまでになりました。

 

 

 

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さて、そんな島津の退き口ですが、現在の名神高速道路関ヶ原ICの南に延びる国道365号線沿いに逃走劇のゆかりの史跡があります。

 

関ケ原町ではなく、お隣の上石津町(かみいしづちょう)まで伸びているので、徒歩で巡るには非常に効率が悪いので車(レンタカーなど)で巡ったほうが良いです。

 

関ヶ原本戦ではありませんが、関ヶ原の戦いを語るうえでも必ず出てくる島津の退き口。

 

現在に残る史跡に立ってみると、当時の事を肌で感じる事ができるかもしれませんね。