垂井城は関ヶ原合戦の時に大谷吉継と共に戦った、平塚為広の居城です。
為広の石碑のページでも紹介しましたが、合戦当時、為広は1万2千石の大名で、垂井城主として美濃垂井(現在の岐阜県垂井町)周辺を治めていました。
なので城持ち大名だったワケですね。
現在、垂井城といわれる地に大きな石碑が建っていますが、この地は比定地(ひていち)。
つまり絶対に垂井城址というワケではなく、研究、検証の結果【垂井城址であろう】と推定されている場所です。
城址の石碑の側にある平塚為広の碑。
有名な辞世の句である『名の為に 捨つる命は 惜しからじ 遂にとまらぬ 憂世と思へば』が刻まれていますね。
これは大谷吉継の辞世の句である『契りあれば 六つの辻にて 待てしばし 遅れ先立つことはあれども』とセットになっているものです。
関ヶ原合戦四百年記念と刻まれているということは、西暦2000年(平成12年)頃に建てられたものでしょうか?
垂井城址がある場所は周辺から少し高い場所にあります。通常、城を建てる場所は高台という場合が多いです。
これは防御しやすいという理由や周辺を見渡しやすいといった事から、高台が好まれますが、垂井城址もこの高低差です。
坂を登った場所が専精寺の駐車場になっており、その片隅に石碑が建っています。
また垂井城跡の専精寺に隣接する垂井の泉。
これは垂井町の地名のもとになってもいますし、岐阜県指定史跡でもあり天然記念物でもあります。
【続日本記】にも見られる泉で、美濃行幸中の聖武天皇(しょうむてんのう:701~756)が立ち寄った【曳常泉】がこの泉だといわれています。
今でもこんこんと水が湧き出ていました。
また岐阜県は水に関して有名な地でもあり、郡上八幡市(ぐじょうはちまんし)は名水の里として知られ、大垣市は水の都の異名をもつほどです。
近年、開発によって水質は低下気味ともいいますが、それでも水が豊富で水に関する観光名所やお土産はたくさんあります。
この垂井の泉もそのひとつですね。
ちなみに垂井町の木は『ケヤキ』ですが、この泉の側に樹齢800年といわれるケヤキの巨木があり、それにちなんだものといわれています。
垂井城址といわれている専精寺のすぐ側なので、城址とセットで巡ってみたい垂井の泉とケヤキの巨木です。
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