兜塚は杭瀬川合戦で討たれた東軍の武将・野一色助義(のいっしき すけよし)を埋葬した墓です。
関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる杭瀬川合戦は、島左近が西軍の士気を上げるための奇襲戦でしたが、その合戦により東軍である中村一栄の家老・野一色助義(のいっしき すけよし)が討たれてしまいました。
野一色助義(通称は頼母:たのも)は、近江国坂田郡野一色村の出身といわれ、豊臣三中老のひとりである中村一氏に8千石で家老として仕えた人物です。
関ヶ原の戦いの時、一氏は東軍に属しますが、合戦前の7月に亡くなり、代わって一氏の弟である一栄と共に出陣しました。
野一色頼母は豪傑として知られた人物でしたが、その勇猛さがアダとなったのが杭瀬川の戦いでした。
目前でイキナリ稲刈りを始めた島左近隊に激怒した中村隊は、島隊を攻撃しますが、しばらくして退却し始めた島隊を追撃し、橋を渡ったところで伏兵に遭い、深田にハマって討ち取られてしまいます。
頼母を討ち取ったのは宇喜多氏家臣の浅賀三左衛門。頼母は関ヶ原本戦に参加することなく、戦場の露ときえてしまいました。
そんな頼母の亡骸を埋葬したのが岐阜県大垣市赤坂西町にある兜塚です。
兜塚は旧中山道赤坂宿沿いにあり、周辺には中山道の史跡が沢山あるので正直分かりにくいです。しかも目の前に『史蹟 赤坂宿御使者場跡』という関ヶ原合戦とは無関係の石碑が建っているので分かりにくさに拍車をかけています。
まあ、逆にこの石碑を目印に訪れれば良いのですが…
兜塚の前に建っている看板。これを見ると【古墳】というフレーズに混乱します。古墳といえば、太古の墓を連想しますが、古墳に遺体を埋めたのか、遺体を埋めた後に古墳と呼ばれるようになったのかよく分からんです。
古墳の頂上に墓碑もあります。兜塚というくらいですから、兜のまま埋葬されたのでしょう。また看板を見ると甲冑もこの中にあることが想像できますね。
さて、頼母が討たれた後、次男の助重も大阪夏の陣の道明寺の戦いで討ち死にしてしまいますが、家督を継いだ三男・義重が父兄の戦功を評価されて、近江国蒲生郡内に2千石の旗本として取り立てられます。
また四男・助忠は播磨姫路の池田忠雄に仕えました。
現在では、島左近の引き立て役にも見られてしまいがちな野一色頼母ですが、兜塚は赤坂宿の遺構と一緒に参拝してみるのもいいかもしれませんね。
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