杭瀬川合戦(くいせがわかっせん)とは、関ヶ原合戦の前哨戦といわれる戦いの事です。

 

慶長五年九月十四日、美濃赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町)に徳川家康本隊が到着しました。

 

家康は当時、安楽寺という寺がある山の上に陣を置き、これにより東軍の士気は上がりましたが、逆に家康到着の報せを受けた西軍の士気はみるみる落ちていきました。

 

 

 

 

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大垣城に入った石田三成隊をはじめ、西軍諸隊にも動揺が走り、中には逃走する兵も出る事態にまでになってしまいます

 

西軍の士気が落ちて戦う前から負け戦モードに入って行く事を危惧した三成でしたが、良い案が浮かびません

 

しかしその時!

 

石田三成の家臣・島左近が戦勝、つまり合戦に勝ち士気を高めることを進言します。

 

しかも西軍の被害は最小限に、東軍の被害は最大限にということで、選んだ作戦が奇襲でした。

 

 

 

 

島左近の戦略は…なんと稲刈り?

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左近は手勢を引き連れて、西軍が拠点とする大垣城と家康が陣を置いた赤坂のほぼ中間地点にある杭瀬川周辺に潜みます。

 

当時、この杭瀬川周辺は森林が生い茂っており、左近はこの中に兵を潜ませました。

 

次に左近は東軍・中村一栄(豊臣政権三中老のひとり中村一氏の弟)隊の目の前でなんと稲刈りを始め挑発します。

 

これに激怒した中村一栄は軍勢を出し、さらに東軍の有馬豊氏隊も加わり乱戦となりました。

 

しばらくすると島隊は負けを装い退却を始めますが、これを中村、有馬の両隊は追撃します。

 

しかしこれが左近の戦略でした。

 

 

 

 

鉄砲衆

杭瀬川の森林に潜ませていた伏兵が中村、有馬の両隊を攻撃します。突然出てきた伏兵に驚いた中村、有馬隊でしたが時すでに遅し。

 

ただただ混乱するばかりで次々に兵が討たれていく中、追い打ちをかけるように西軍・宇喜多隊の明石全登が参戦。

 

ほぼ壊滅状態となった中村、有馬両隊は、これにて敗走しましたが、この時、中村家の家老・野一色頼母助義(のいっしき たのも すけよし)が討たれる等の大きな被害を出してしまいます。

 

これにより西軍の士気は多いに上がり、今まで話には聞いていたものの島左近の戦上手は東軍諸隊に広く知られることになります。

 

 

 

 

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さて、そんな杭瀬川合戦が行われた場所は、現在の岐阜県大垣市南一色町付近という説があります。

 

現在の日吉神社周辺と考えられており、今でもこの周辺は湿地帯になっています。また車で訪れる際には周辺の道が細いので注意したい場所です。

 

 

 

 

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現在の杭瀬川が戦国時代からの場所ではありません。この周辺、濃尾平野は江戸時代通して洪水の度に川筋が変わっています。

 

稲刈りの場所、伏兵の場所、野一色助義が討たれた詳細な場所等分かりませんが、この周辺で有名な杭瀬川合戦が行われたのは確かな様です。

 

杭瀬川合戦が行われたといわれている場所の地図

 

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