関ヶ原合戦で東軍として戦った田中吉政と合戦後の逸話について。
近江出身と伝わる田中吉政ですが、その出自や前半生はよく分かっておらず、一説によると石田三成の推挙によって羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えたといいます。
この事から、同じ近江出身である三成と幼なじみ、もしくは余程の才能があった人物だったのでしょう。
吉政は天正十年(1582)頃くらいに、秀吉の甥の羽柴秀次(のちの関白豊臣秀次)の宿老となります。
天正十三年(1585)に秀次が近江八幡四十三万石を与えられると、吉政のほかに中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末らも秀次付きの家老になりましたが、吉政はその筆頭格でもありました。
他の家老たちはそれぞれ自分の居城を持っていましたが、吉政だけは秀次の居城である八幡山城にあって、政務を取り仕切り秀次補佐します。
現在の観光名所として名高い近江八幡城の外堀で運河の約割も担った八幡堀は、吉政が秀次の家老だった時代に作られたものです。
さて、そんな吉政は秀吉に信頼されて東海道沿いの岡崎城に入城し、関ヶ原の戦いでは岡崎城主として東軍に付きます。
田中吉政が陣を置いたとされる場所には現在石碑と案内看板が建っています。場所的には関ヶ原資料館の近くであり、ココはほぼ前線に近い場所です。
周辺は住宅地、公園があり陣址を偲ばせる遺構などは残っていません。
資料館近くの史跡ということで、東首塚、井伊直政・松平忠吉陣址とセットで周る事ができます。
吉政の武功として、関ヶ原合戦の前哨戦である岐阜城攻めの時、大垣城から岐阜城に援軍として向かっていた三成家臣の杉江勘兵衛を吉政の家臣である辻重勝が倒したり、合戦後の佐和山城攻めで搦手から突入して活躍した事が記録に残っています。
ニラ粥の逸話
また石田三成を生きたまま捕縛するという大功を上げたのも吉政で、正確にいえば実際に三成を捕らえたのは田中伝左衛門、そして沢田少右衛門ですが、護送に当たった時、有名な話が残っています。
捕らえられた時、三成は腹痛で病んでおり、医師は薬を勧めましたが三成は拒否します。
そこで吉政は一考し、腹痛に良いという理由でニラ粥を勧め、三成はそれを食したそうです。
また三成は捕縛される時に『他の者に捕らえられるより、貴殿に捕らえられたほうがいい』と吉政に言い、自分を捕らえた功績をかつての知人である吉政に与えようと思っていたとか。
その際、三成はあくまで礼を尽くす吉政に対して、かつて太閤秀吉から給わった脇差しを授けたそうです。
この脇差は現存しており、東京国立博物館に収蔵されています。
吉政は戦後に、これらの勲功が家康に認められて、筑後一国と柳川城三十二万石を与えられ、国持ち大名となりました。
三成の推挙で武士になり世に出ることになったといわれる田中吉政ですが、三成を捕縛することによって国持ち大名となりました。
この事から三成に対して恩をアダで返したカタチになりましたが、三成はこの事をウラミに思っていなかった様で、むしろ脇差を送った事により吉政に対してなにか特別な想いもあったのではないでしょうか。
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