関ヶ原古戦場に残る大谷吉継と湯浅五助の墓と陣址への行き方、そして私の感想です。

 

まず大谷吉継の墓と陣跡は山の中にあります。

 

墓のすぐ側に陣跡もありますので、墓の看板に従って山中に進むと着きますが、やはり山なので足元は固めて行きたいです。女性の方はハイヒールではなく、できればスニーカーなどがいいでしょう。

 

そして夏場は薮蚊をはじめ虫に悩まされる季節でもありますので、あまりオススメできず、できれば夏以外の季節が良いと思います。

 

あとアクセスですが、西軍の史跡散策コ-スにも組み込んであり、観光パンフでも紹介しており、さらに平塚為広の碑からすぐのところにあるのでわかりやすいと思います。

 

大谷吉継の墓と陣跡の地図

 

 

 

 

関ヶ原に残る大谷吉継の墓へのアクセス方法

途中、陣跡の方向と二手に分かれますが、まずは墓の方へ行ってみましょう。

 

関ヶ原合戦前に三成の挙兵が無謀に近いと思った吉継は、平塚為広と共に三成を諌めますが、三成の意思は固く、そんな三成をフォローするカタチで参戦する事になってしまいました。

 

病のために実際には大谷隊の指揮は平塚為広が執っていたともいわれますが、それでも自身は輿に乗って参戦したと伝わります。

 

 

 

 

小早川の回想

戦い半ばになり小早川秀秋が予想通り裏切ると、大谷隊は小早川隊と激戦を繰り広げ、三度追い返したと伝わります。

 

この時の激戦ぶりはかなり凄まじかったらしく、東軍から小早川秀秋の監視役として派遣されていた、奥平貞治も重傷を負うほどで、この時の傷がもとで、貞治は合戦後に亡くなったとも伝わるほどでした。

 

また大谷隊は勢いに乗り、小早川隊を逆に追撃するほどだったそうですが、この時、東軍であった藤堂隊、京極隊に加え、小早川隊に呼応するカタチで東軍となった、脇坂、赤座、小川、朽木の4隊、約4,200人が、大谷隊の側面から横槍を仕掛けます。

 

これにより大谷隊は前面から東軍、そして側面から脇坂らの内応諸隊、さらに体制を立て直した小早川隊が背後から襲いかかり、包囲され、猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅。

 

吉継も最後を迎えました。享年42。

 

また平尾氏箚記という記録にこの時のエピソードが記載されています。

 

それによると吉継はこの時、ハンセン病を患っており、敵に首を渡すことを恥として、側近の湯浅五助に首を討たせ、五助は主人である吉継の首を陣から離れた場所に埋めました。

 

しかし埋め終わった直後に、敵である藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑(とうどう たかのり)に発見されてしまい、『私の首を差し上げます。しかしその代わりに、主君の首をここに埋めたことは内緒にしてほしい』と頼み、藤堂高刑はそれを承諾して五助の首をとりました。

 

この事を聞いた藤堂高虎は、甥である高刑が湯浅五助の首を取ったことを大変喜び、徳川家康の本陣に報告します。

 

 

 

 

関ヶ原合戦後の家康

五助の首を見せた時、家康はその手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近の湯浅五助なら主君である吉継の居場所も知っているはずだろうと、高刑に吉継について聞こうとしますが、高刑は五助との約束を守り、決して吉継の事や首を埋めた場所について何も言わなかったそうです。

 

高刑は吉継の首を埋めた場所を知っているので、その首を掘り起こして家康に差し出せば、莫大な褒美をもらうこともできたのでしょう。

 

しかし高刑は五助との約束を守り、決して言わなかったとか。その姿勢を家康は罰するどころか感心して、自分の槍と刀を与えたそうです。

 

 

 

 

大谷吉継と湯浅五助の墓

合戦後、まもなく藤堂家によって大谷吉継の墓が建立され、大正五年(1916)には、そのとなりに湯浅五助の子孫により五助の墓も建立されました。

 

関ヶ原で露と消えた主従ですが、今でも二人の生き様に感銘した人達は多く、関ヶ原を訪れた人達や地元の人達によって献花も絶えることがありません。

 

観光スポットというより、キホン墓なので、節度をもって参拝したいですね。

 

 

 

 

藤堂家が建立した石碑

こちらは墓を建立した藤堂家の碑。

 

関ヶ原では敵同士でしたが、数百年後のキズナはアツいですね!

 

 

 

 

そして陣跡

大谷吉継陣跡

次に陣跡レビューです。

 

大谷吉継の墓の近くに陣跡があるので、墓と陣跡はセットで訪れる事ができますよ。

 

NHK大河ドラマなどで関ヶ原合戦のシーンが出てきますが、映画やTVでは大谷吉継は平地に陣を置いていた様に描かれています。

 

しかし実際に現地に行ってみると、山腹に陣跡があるんです。現在では石碑が建っており、そのほか陣跡を想わせる遺構は残っていませんんが、この地形こそが吉継の戦上手を物語るものでもあります。

 

 

 

 

大谷吉継陣跡の高低差

石碑の周辺の地形。急激な下り坂になっています。

 

もしこの陣を攻めるとするならば、坂を駆け上がるカタチになり、逆に大谷隊からすれば、坂を下るカタチで敵と戦いますので、大谷隊が有利になります。

 

実際に小早川隊が大谷隊に攻撃を仕掛けていますが、大谷隊は三度これを退け、逆に小早川隊を追撃しています。

 

攻撃された時は山から降って退け、敵が退いた時に山に戻り、また仕掛けてきたら降って戦う…みたいなカンジで、敵を引きつけ地形をうまく利用して戦っていたのではないかと想われます。

 

しかし東軍の藤堂隊、京極隊、そして東軍に寝返った脇坂、赤座、小川、朽木の4隊の攻撃を受けて壊滅してしまいますが。

 

 

 

 

私の感想

私の感想ですが、大谷吉継の墓と陣跡は山の中にあるので、やはり足元は固めて登りたいです。

 

特に陣跡の方は目の前が急激な下り坂になっていますので、女性の方のハイヒール等はオススメできません。できればスニーカーなどが良いと思います。

 

 

 

 

レンタサイクル

そして資料館でのレンタサイクルで史跡巡りをしている場合、とても山中までは持ち込むことはできないので、ふもとの邪魔にならない場所に停めて、墓と陣跡を巡ると良いと思います。

 

関ヶ原にはたくさんの史跡がありますが、石田三成陣跡の笹尾山と大谷吉継の陣、墓はできれば押さえておきたいポイントだと思います。

 

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