小早川秀秋が東軍に寝返った時、共に呼応したといわれる脇坂安治の陣址です。
秀秋に呼応した関ヶ原の寝返り組4隊(脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保)のうち、陣址が残っているのは脇坂さんのみ
他の三人もたぶん近くに陣をおいていたのでしょう。
さて、あまり知られていない事ですが、近江(現在の滋賀県)で生まれたといわれる彼は、浅井長政、明智光秀に仕えた後に羽柴秀吉に仕えており、本能寺の変後、秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳合戦では、賤ヶ岳七本鎗のひとりに数えられています。
ということは、関ヶ原合戦では東軍だった福島正則、加藤嘉明らとは、かつての同僚ということになりますが、秀吉家臣団は近江派と尾張派で対立しており、近江派だった安治は、尾張派だった正則や嘉明とは、あまり仲も良くなかったみたいです。
光秀の家臣だった頃のエピソ-ド
また他の賤ヶ岳七本鎗のメンバーに比べると、あまり有名でない気もしますが、それなりに武勇伝も残っています。
有名なのが貂(てん)の皮のエピソード。
彼がまだ明智光秀に仕えていた頃のオハナシ。
当時、敵であった丹波の赤鬼といわれた黒井城の赤井直正を追い詰めた際、直正に単身降伏勧告に出向きますが、その度胸を直正から賞賛され、赤井氏の家宝である貂の皮の槍鞘を拝領しました。
この出来事以降、【貂の皮】は脇坂家を意味するものとして使われたりもしています。ちなみにこのエピソードは司馬遼太郎作の歴史小説・『貂の皮』としても描かれています。
そんな脇坂さんの陣址には、石碑と案内看板、そして赤地に白の輪違いの旗が建っています。周辺は畑となり今では森に囲まれた様になっています。
見るべきところはこれくらいで、堀、土塁などかつての陣址を想わせる遺構などは残っていません。
さて、関ヶ原での寝返り組という位置付けの脇坂さんですが、戦後の論功行賞を見てみると、彼だけ所領安堵され、慶長十四年(1609)には、伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)に5万3千5百石に加増移封されてもいます。
これは関ヶ原合戦の時、藤堂高虎と通じて、はじめから東軍として戦うという意思を鮮明にしていたといわれ、西軍からの裏切り者ではなく、当初からの実は東軍と見なされていたとのこと。
ちなみに他の三人は関ヶ原後どうなったかというと、
- 【朽木元綱】 近江朽木谷2万石⇒9,590石
- 【小川祐忠】 褒美どころか改易(所領没収)
- 【赤座直保】 この人も所領没収つまり改易
という道を歩んでいます。
そう考えると、安治は他の三人に対して後ろめたさもあったのかもしれませんね。
しかし大坂の陣では徳川、豊臣どちらにも味方せず中立を決め込んでいます。これは豊臣家に対してやはり恩義を感じていたともいわれていますが、逆にこの中立が徳川方から警戒されてしまい元和元年(1615)に家督を次男である安元に譲って隠居。
その後も大洲に住みづらくなったのか、剃髪して臨松院と号して京都西洞院に移ります。
そして寛永三年(1626)に京都で死去。享年73。